こんにちは、のた(@Nor21011)です。
私はAIと一緒にブログを書いています。ネタを決めるところから記事の構成、初稿まで、ほとんどの工程でAIと壁打ちをしています。以前、「AIに書かせるのか、AIと書くのか」という話も記事にしました(挫折ブロガーがAIで再挑戦するブログ運営術【Claude×ChatGPT実体験】)。
それでも、後ろめたさが消えません。
AIで書いていると言うと、自分でなくても量産できる程度の記事だと思われるのではないか。ネットに転がっている情報をAIがかき集めて、それっぽくまとめただけだと思われるのではないか。26本の記事を公開した今も、その感覚は残っています。
私は以前、まったくAIを使わずにブログを書いていました。自分で調べて、構成を考えて、文章を書いて、画像を用意して公開する。その流れをAIに置き換えている自覚があるので、なおさら「自分は考えていないのではないか」と思ってしまいます。
この記事では、その後ろめたさが何なのかを分解します。そのうえで、私がこの感覚とどう付き合っているかまで書きます。同じようにAIでブログを書いていて、同じ引っかかりを持っている人に向けて書いています。
後ろめたさの正体は、やったことが外から見えないことだった
私が後ろめたいのは、手を抜いたからではありませんでした。やった作業が、読者からは見えないからでした。
読者が目にするのは、公開された記事だけです。そこに至るまでに何を調べたか、どこで悩んで考え直したかは、記事の表面には出てきません。
AIを使う前は、この状況でも困りませんでした。調べるところから書き上げるところまで、全部自分の手でやっていたからです。できあがった記事そのものが、自分で作った証拠になっていました。
今は、記事の形を作る部分をAIと一緒に進めています。私が手を入れた場所は記事の中に残っていますが、どこをどう直したのかは、完成した記事を読んでも分かりません。 後ろめたさは、ここから来ていました。
では、その「見えない作業」で実際に何をしているのかを書いていきます。
減ったのは「書く手間」だけだった
AIを使うようになって減った手間は、白紙から文章を立ち上げる作業でした。
何もないところに見出しを並べて、最初の一文を置いて、記事の形にしていく。白紙から文章の形を立ち上げる部分は、もうAIに任せています。
ただ、出てきた文章をそのまま使うことはありません。言い回しを変えて、接続詞を選び直して、改行の位置を動かして、一文が長ければ切ります。主語をどこまで繰り返すかも決め直します。この作業は、AIを使う前と変わらず自分でやっています。
その代わり、増えた手間があります。何をリサーチするか。読者が本当に知りたいことは何か。この記事で何を主張して、何を書かないと決めるか。AIを使う前より、考える量は増えました。
自分で書いていた頃は、書くこと自体に時間を取られていました。1本の記事を形にするだけで力尽きて、「この記事は誰の役に立つのか」まで戻って考える余力が残っていませんでした。今はその余力があります。
手間が減ったのではなく、手間の種類が入れ替わりました。そして入れ替わった先が、全部見えない場所にあります。
AIが「公開OK」と言った記事を、私が壊している
増えた作業の中でも一番大きいのは、AIが出したものに「違う」と言って壊す作業です。
私は記事を公開する前に、チェック役のAIに読ませています(「AIに書かせた記事が『上手いのに伝わらない』理由|足りないのは主張でした」でも触れた工程です)。
2026年8月に公開した記事では、チェック役のAIと4回やりとりを重ねて、最後に「このまま公開して問題ない」という判定をもらいました。事実確認も終えて、あとは公開するだけの状態でした。
その状態で自分で通して読んで、手が止まりました。この記事の結論が、どこにも書かれていませんでした。
見出しは整っていて、各セクションの中身も間違っていません。それでも、読み終わったときに何を持って帰ればいいのかが分かりません。これでは何を言いたいのか伝わらない、と思いました。
同時に、何を言いたいのか分からない文章に、なぜAIはOKを出したのかが理解できませんでした。
4回のチェックを通過した原稿を、私はそこで壊しました。構成を組み替え直して、公開までに通常の3倍の時間がかかりました。
このとき私がやったのは、判断です。文章を書いたわけではありません。壊したあとに組み直す作業では、また私はAIを使っています。それでも、「これは違う」と言えるかどうかは、AIには代わってもらえませんでした。
一番時間をかけているのは、書き始める前
私が一番時間をかけている工程は、記事を書き始める前にあります。
自分の考えの軸を、文書として残しています。何のためにブログを書いているのか、誰に向けているのか、何を大事にするのか。それをファイルにして、記事を書く前にAIに読ませています(AIに覚えさせるより、自分の“第二の脳”に置くことにした)。
そのうえで、AIに軸を見張ってもらっています。私の言っていることが記事ごとに変わっていないか。過去に自分が書いたことと食い違っていないか。自分が書いたことを全部は覚えていられないので、過去の記事をAIに読ませて照らし合わせてもらっています。
書き始める前にやっているのは、確認だけではありません。何を書くかを決める作業そのものが、ここにあります。
この記事も、そうやって作りました。思っていることを整理しないまま並べて、AIから問いを返してもらって、答えているうちに自分の考えがはっきりしていきました。私の中になかったものをAIが作ったわけではありません。自分の中にはあったのに、言葉になっていなかったものが形になりました。
読者が読むのは、この工程を全部通り抜けたあとの文章です。手前で何時間使ったかは、どこにも表示されません。
「読まれないのはAIで書いたからだ」は、私の思い込みだった
私はずっと、記事が読まれないのはAIで書いているからだと思っていました。調べてみたら、それとは別のところに、はっきりした問題がありました。
2026年7月に、記事が読まれない理由をきちんと調べました。そもそも誰も検索していない言葉で、記事を書き続けていました。
記事の中で読者の悩みにどう答えるかは、ずっと考えてきました。でも、読者がそもそもどんな言葉で探しているのかは、一度も調べていませんでした。 読者のことを考えているつもりで、読者がどこにいるのかは見ていませんでした。
気づいてから、キーワードを調べる工程を足しました。ただ、検索結果に反映されるまでには時間がかかるので、この修正が効いたかどうかは、まだ分かりません。 分かっているのは、AIで書いていることとは別に、直すべき問題があったということです。「AIで書いたから読まれない」と決めつけていたのは、違いました。
読んでもらうための工夫は、自分で足している
記事を読みやすくする工夫は、AIに任せず自分で足しています。
読まれない理由に見当がついても、読みに来てくれた人に伝わるかどうかは、また別の問題です。
記事の最後にまとめの図解を入れているのは、斜め読みでも要点だけは持って帰ってほしいからです。キーワードにマーカーを引くのも同じで、どこを読んでほしいかを文章の外側でも示しています。AIが書いた文章の癖を、自分の言葉に直す作業も続けています(AIっぽい文章を自分の言葉に直す|私が気になったAIの癖と運用ルール)。
どれも派手な工夫ではありません。ただ、図解に何を残すか、どの一文にマーカーを引くか、この言い回しは自分の言葉と言えるか。AIが出したものを公開していいと最後に決めているのは、いつも自分です。
後ろめたさは消えていない。無理に消さなくていいと思っている
ここまで書いても、私の後ろめたさは消えていません。白紙から文章の形を立ち上げているのがAIであることは、変わらないからです。
ただ、この感覚は無理に消さなくていいと思うようになりました。私にとっては、「これを自分の記事として出していいのか」と考え直すきっかけになっています。引っかかりがあるから、その手前で一度止まれます。
もしこの感覚が完全に消えたときは、自分の使い方を振り返ろうと思っています。
そのうえで、確かめ方を1つ持っています。この記事の主張を、自分は責任を持って言えるか。 言えるなら、文章を書いたのがAIでも、その記事は自分のものです。言えないなら、そこは直す場所です。
AIの出した文章に「これは違う」と言って直しているなら、それが見えない手間です。誰にも見えないところで、判断をしていることになります。
まとめ
AIでブログを書いていて後ろめたいなら、その感覚は大事にしてください。手を抜いた証拠ではありません。少なくとも私の場合は、自分がどこまでやっているかを分かっているからこそ出てくる感覚でした。
そのうえで、確かめ方はこれだけです。
- その記事の主張を、自分は責任を持って言えるか。 言えるなら、書いたのがAIでも、その記事は自分のものです
- 後ろめたさが消えたときは、一度立ち止まる。 私はそのときに、自分の使い方を振り返ろうと思っています
私は、0から100まで自分の力だけで書けるなら、AIは使いません。でもAIを使ったほうがいい記事が書けると思っているので、使っています。
やったことが外から見えないこと
言えるなら、文章を書いたのがAIでも、その記事は自分のものです。
